令和 4 年度に長崎市に寄贈された横山又次郎の古写真群について調査した結果、上野彦馬をはじめとする日本最初期の写真師によって撮影された幕末から明治期のものと判明し、横山又次郎の前半生を写す重要な資料であることがわかりました。また、当該資料の発見によって、明治期の長崎の名家である横山家と上野家、堀家の関係について新たな知見が得られました。この研究成果は日本古生物学会の学術論文として令和 6 年 10 月 8 日に公表されました。
〈記者会見当日の公開資料〉
横山又次郎らの古写真30枚(実物)
※ 実物資料は撮影可能ですが、フラッシュ撮影は当該資料を痛める恐れがあるため、禁止とさせていただきます。
〈資料の取得と研究の経緯〉
長崎市恐竜博物館が開館する直前の令和 3 年 10 月 21 日に、横山又次郎のご令孫で関東在住の横山 喬氏がご夫婦で長崎市にお越しいただいたことが契機となり、その後の本市との交流の中で、令和 4 年度に当該資料を寄贈いただきました。
横山又次郎はドイツ留学を経て帝国大学(後に東京帝国大学と改称)の古生物学の教授となり、日本の化石研究の基礎を築いたことから、「日本の古生物学の父」と呼ばれている長崎市出身の古生物学者です。「恐竜」という和訳は、横山教授が著した日本初の古生物学の教科書「化石学教科書」の中巻(明治 28 年)に記されたものが最も古い記述とされています。この他にも横山教授による著書は多く、研究者としての業績もよく知られていましたが、前半生やプライベートに関する資料がほとんどありませんでした。そのため、横山教授に関する古写真群が彼の前半生やプライベートについて新たな知見が得られる重要な一次資料であったことから、長崎市恐竜博物館の学芸員だけではなく、古写真や長崎の歴史に詳しい専門家と共に調査を進めて参りました。これまでに本研究については、日本古生物学会第 172 回例会と日本地球惑星科学連合 2023 年大会で途中経過を発表しました。そしてこの度、日本古生物学会が発行する学術雑誌「化石」(令和 6 年 10 月 8 日オンライン公開)で公表されることとなりました。
雑誌:化石(日本古生物学会邦文機関誌)
表題:古写真群から読み解く横山又次郎の前半生
著者:中谷大輔、姫野順一、田中・ファンダーレン・イサベル、小平将大、早川昌宏
URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaseki/116/0/116_35/_pdf/-char/ja
〈資料の特徴〉
寄贈された古写真の大きさは 100mm x 65mm x 5mm 程度 (縦 x 横 x 厚さ)で、30 枚が一冊のアルバムに収められていました。写真紙の裏面には撮影の時期や場所によって異なるデザインの台紙が貼られており、写真の縁やアルバムなどの記述と併せて検討した結果、撮影時期が 1864 年 (元治元年) 頃から 1889 年 (明治 22 年) 頃のものと推定されました。写真の被写体は大部分が横山又次郎の少年期から青年期のもので、その他に横山家分家 3代阿蘭陀通詞を務めた又次郎の父又次右衛門持盈(もちみつ) (号: 得齋) や得齋の後妻で、又次郎の養母とされる横山庭/にわ(上野彦馬の姉)等の写真も含まれていました。
〈学術的意義〉
横山又次郎に関する古写真群は次の点で重要なものと判明しました。
① 幕末から明治期にかけて、上野彦馬などの複数の写真師によって撮影された横山又次郎の連続的な古写真群であり、又次郎の前半生を知る上で欠かせない資料であることがわかりました。
② ドイツ留学中の又次郎単独の肖像写真(図 1)や父得齋の晩年の姿を写したもの(図 3 左)など、当該資料で初めて発見された古写真が複数点含まれていました。
③ 「兄堀静, 弟横山又次郎十五才」と記述された写真(図 3 右)が含まれていたことにより、これまで詳細が不明だった堀静が、又次郎の義兄で堀家からの養子の横山勇之助と同一人物であることが判明しました。また、又次郎の姉幸との離婚後に堀姓を名乗っていたこともわかりました。
④ 又次郎の少年期から青年期にかけての古写真で、その大半が上野撮影局で撮影されたものであることから、又次郎の養母で上野彦馬の姉である横山庭/にわ(図 3 中央)が深く関与したものであることが示唆されました。
⑤ 明治初期の長崎の名家である横山家と堀家、上野家の関係を示す資料で、長崎の歴史を理解する上でも欠かせないものであることがわかりました。
〈展示公開〉
令和6年10月19日から ベネックス恐竜博物館にて展示
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